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遼東日記 2008年1月

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鳥獣戯画 2008年1月24日(木)

 メディア、とりわけテレビが、「霊視」や「占い」を肯定的に扱うことの問題点について、これまでさまざまな機会に述べてきた。
 さる1月21日、BPO(放送倫理・番組向上機構)放送倫理検証委は、昨夏にフジテレビが放送した番組に放送倫理違反があったことを認定した上、「面白さを求めて『スピリチュアルカウンセリング』をPRするような構成・演出は避けるべきだ」と警鐘を鳴らした。

 問題となったのは、07年7月に放送されたバラエティー番組「FNS27時間テレビ『ハッピー筋斗雲』」内の企画だ。
 報道被害にあったのは、新潟の地震被災者などに自家農園のリンゴを贈る活動をしていた秋田県内の美容室経営者の女性。番組は「美容室が経営難に陥っている」とする手紙を前提に、江原某が彼女の亡くなった父親の声なるものを伝えたものだった。

 だが、そもそも美容室スタッフから送られたとする手紙そのものが、番組が捏造したものだった。講演会の開催だと偽って女性を上京させ、了解もなしにスピリチュアル・カウンセラーを自称する江原啓之の霊視≠受けさせた。
 全国放送で彼女の美容室を「経営難」だと報じた上、江原に亡き父親が、ボランティアに熱中するのもいいが、本業に身を入れるよう心配している≠ニいう趣旨の発言させたのである。

 デタラメな前提で進められる霊視≠ノ対し、女性は抗議をしたが、番組はそれら都合の悪い部分をカットして、あたかも彼女が江原の言葉に感動しているかのような編集をした。
 居住する地元や、ボランティアで関わった先の多くの人々に「経営難をよそにボランティアに熱中する人物」と報道されたことで、女性や店のスタッフは、体調を崩すほど心身にダメージを受けた。

 じつは、昨年11月の当欄でこの件に触れたあと、10日ほど経って女性本人からメールが届いた。むろん、私とは一面識もない方だったが、偶然に私のコラムを発見してオフィシャルサイト宛に連絡をくださったのだった。
 メールには、地方に暮らす一市民が巨大メディアを相手に声を出すことへの不安を感じながらも、二度と同じような被害者を出さないために勇気を出してBPOに検証を求めた経緯が綴られていた。

 たしかに、この国には思想信条の自由も表現の自由もあるわけで、江原某が「オーラ」だの「守護霊」だのと口走ることも、誰かがそれを信奉することも自由である。
 ただしテレビが、第三者に検証しようのないそれらの事柄を、あたかも事実であるかのように権威づける演出構成をして放送することは、放送法に抵触しかねない。今回の事件は、テレビが巧妙に「権威」や「感動」を捏造している舞台裏を、図らずも露呈したわけだ。

 ちなみに、この江原某については、彼が出演するテレビ朝日系の「オーラの泉」での失態≠ェ報道されたばかりである。
 昨年末の放送で、江原某は宝塚出身の女優に対し、彼女の亡くなった父親が音楽学校の受験を理解し見守っていたという霊視≠披露した。ところが、亡くなっていたのは後年になって母親が再婚した継父であり、受験当時も生活を共にしていた実父は今も健在だと判明した。

 死去した継父は「父親」には違いないが、音楽学校受験の当時にはまだ女優と接点もない。実父は事情があって母親と離婚したものの、当時も今も生きている。いったい江原某が霊視≠オた「見守っていた死んだ父親」とは誰なのかと、『週刊文春』に茶化されているのである。
 同誌からの質問に対し、江原サイドは「編集方針に疑問がある」という理由で回答を拒否しているそうだ。

 テレビがこうした手合いを寵愛するのは、ただただ視聴率が獲れるからである。そのために、メディアは彼らを権威に仕立て上げ、何の罪もない市民を貶めてでも、視聴者が食いつくような感動≠演出する。
 持ちつ持たれつ、ペテン師のようなやりかたで名をあげ懐を潤わせている連中が、「愛」を語り「人生」を語り「いのち」を語っていく。おぞましい鳥獣戯画である。


  ※遼東日記「もはや限度を超している」2007.11.2

悪くないねん 2008年1月21日(月)

 阪神大震災から13年目の1月17日、震災関連の報道にまぎれて、三面記事に一つの自殺報道が載った。
 午前5時55分、大阪市内の南海高野線・帝塚山4号踏切で、遮断機をくぐって侵入した男性が線路上でうつぶせになり、難波行きの普通電車にはねられて即死した。48歳の市立中学校教諭だった。

 この男性教諭は昨年、ある報道がきっかけとなって停職2ヵ月の懲戒処分を受けていた。
 昨年6月12日、各紙はいっせいに教諭が引き起こしたとされる「不祥事」を報道した。それは、市立中学校のサッカー部顧問である教諭が、2005年の夏休み中の練習で、PK(ペナルティーキック)をはずした5、6人の生徒に罰として全裸でランニング≠キることを強要≠オたとするものだった。

 当時の報道を探すと、おそらく通信社が配信した同一の記事を使ったのだろう、複数の新聞が同日にほぼ同じ文面で「不祥事」の発覚を報じている。
 報道は、教諭が生徒や保護者に謝罪をしていながら、学校が市教育委員会に報告していなかったとし、「生徒の人権にかかわることで極めて悪質。事実確認をした上で厳正に対処したい」という市教育委のコメントを伝えていた。

 市教育委は9月13日付で教諭を停職処分とし、校長も文書訓戒処分にしている。その後、教諭は教壇に復帰するが、学校の同僚や保護者との人間関係に悩んだ末、自ら命を絶った。
 それにしても2005年夏に起きていた出来事が、なぜ2年近くを経た2007年6月になってマスコミに取り上げられたのか。教諭は「不祥事」のあとも同校に在籍し、サッカー部顧問を継続しているのである。

 じつは、2005年6月に岡山の私立高校で野球部監督が部員に全裸ランニングを命じた事件があり、監督は2007年3月に強要罪で起訴された。前年の2006年秋には、福岡で担任教諭がイジメを煽るような暴言を吐き、男子中学生が自殺したことが大きく報じられていた。
 こうした教師の暴力≠問題視する報道の流れの中で、誰かが2年前の出来事をマスコミにリークしたのであろう。

 ところが、大阪の一件は事情が違っていた。教諭が命を絶ったあと、インターネット上の日記で、当時サッカー部員として裸でランニングをした当事者が一連の真相を告発している。
 それによると、この中学校のサッカー部は2004年まで「仮部」であり、教諭は懇請されて顧問となった。一生懸命な反面、冗談のわかる先生で、生徒たちとは和気あいあいとやっていた。

 その日はPKの練習をすることになった。PKには集中力が要求される。どうすれば緊張感を持ってやれるかで教諭から「はずしたら全裸で走る」という話が出た。
 結果的に、PKをはずした生徒の数名が全裸でグラウンド内をランニングをするのだが、それは教諭の強要などではなく、生徒の数人がおどけてやったことだったという。

 裸で走るのが嫌な者は筋トレをすることにし、教諭に無理強いされて走った者は誰もいなかった。この日のグラウンドにはサッカー部しかおらず、グラウンドは外から見えにくかったという。
 全裸で走った本人が、〈俺らが調子に乗っただけやねん〉〈面白くて笑えるええ想い出やったんやで〉と綴っているのだ。脱ぐか脱がないかは自由だったと、彼は書いている。

 10代の男の子ばかりの陽気な雰囲気の中、夏休み期間という開放的な気分も手伝って起きた出来事だった。たしかに教育の場で軽率な悪ふざけが過ぎたという面はあったにせよ、当事者たちには「わいせつ」とか「強要」とかいう意識は微塵もなかったことだろう。
 にもかかわらず、教諭が直後に生徒や保護者に謝罪に回るはめになったのは、たまたまグラウンドに来ていた保護者の一人が目撃して問題にしたことがきっかけだった。

 昨年6月の報道後に書かれた教育関係者のサイトなどを見ると、岡山の事件を引き合いに出して、「この教師をなぜ刑事処分にしないのか」とする声や、「こんな危険な教師が学校に復職することを許してよいのか」といった論調が目立っている。
 しかし、最初に保護者がランニングを問題視した際、教諭を処分しないよう学校側にかけあったのは、ほかならぬサッカー部の生徒たちだった。

 この10数年、メディアは受け手の感情に訴える手法に大きく傾斜している。その感情の多くは「憎悪」である。メディア自身が憎悪に突き動かされ、憎悪を報じ、人々の憎悪を掻き立てていく。
 その渦中で、不用意な(もしくは悪意の)リークを真に受けて検証もしなかった報道が、事情を知らない者たちの憎悪を煽り、生徒たちから慕われていた教諭を問題教師≠ノ追い込んでいった。

 亡くなった教諭の通夜には、多くの生徒や卒業生が参列したという。
 おそらく通夜のあとに携帯電話からアップされたものだろう。裸で走った元サッカー部員の日記には、こう記されていた(誤字もそのまま)。
 〈もうこれ以上 先生を傷つけるなよ 皆に慕われて 幸せな気持ちで 逝かせたれよ... お願いやから もう辞めてよ... 先生わ悪くないねん〉

フェアであること 2008年1月14日(月)

 近代ジャーナリズムを支えてきた金科玉条に「中立公正」「不偏不党」がある。
 新聞界では、2000年に定められた新聞倫理綱領にも、〈報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない〉〈新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない〉等と記されている。

 また、テレビ放送等が遵守すべき放送法には、〈放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること〉〈政治的に公平であること〉〈意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること〉と明記されている。
 国からの免許によって事業を行うテレビ局の場合、「中立公正」「不偏不党」はとりわけ重要である。

 しかしながら、それがマスメディアに所属する人間であれフリーランスであれ、ジャーナリスト個人を考えた場合にどうなるのだろうかという問題がある。
 「中立公正」「不偏不党」ということは、政治的にいかなる主義も掲げず、いかなる政党にも議員にも投票せずということなのだろうか。いかなる信仰も持たず、いかなる団体にも所属しないことを指すのだろうか。

 当然ながら、そんなことはあり得ない。誰しもがジャーナリストである以前に一個の人間である。むしろ良心を持った人間であり、社会や次世代への責任を持とうとする人間であるならば、政治的な意思も持つだろうし、あるいは信仰も持つであろう。
 特定の支持政党がなくとも、国民の権利として投票には行くだろうし、特定の教団に所属していなくとも、信仰心の片鱗を保つことは可能である。

 言うまでもなく「中立公正」「不偏不党」とは、ジャーナリストに対して個人的な思想信条を持つなということを意味しない。
 もしも、いずれの政党の主張にも心を動かさず、一度たりとも投票に行かず、完全な無神論者で(論理的には、それはそれで一つのイデオロギーであるが)いかなる宗教儀礼にも加わらないというジャーナリストがいたとすれば、私はそんな人間の吐く言説には耳を傾ける価値を覚えない。

 にもかかわらず世の中には、ジャーナリストはあたかも無色透明・無味無臭の立場でなければならないかのような、奇妙な暗黙の幻想があるのではないか。
 はたして政治について何らかの言及をするジャーナリストは、いかなる政治的信条もシンパシーも持ってはならないのか。宗教を論じる人間は、いかなる信仰にも無縁でなければならないのか。そうでなければ、「中立公正」「不偏不党」を欠いて失格してしまうのか。

 たとえばキューバという国の真実や価値を知ろうと思えば、私は、批判研究の対象として外国からキューバを論じている人間よりも、キューバに50年暮らしている陽気なおかみさんの話を聞きたいと思う。
 もちろんキューバから亡命してきた人間の発する批判にも耳を傾けるが、その批判に自己正当化や何らかの政治的バイアスがかかっていないかに、むしろ注意を払うだろう。

 ジャーナリストが、そのジャーナリズムにおいて求められる「中立公正」「不偏不党」とは、何者にも属するなというバカげた話ではあるまい。多様な価値が尊重されることが民主主義ならば、多様な価値観からのジャーナリズムは民主主義を支える豊かな根っこになる。
 ありもしない無色透明さを装う人間よりも、何であれ自身の価値観を明確に掲げる人間のほうが信用できる。

 虚構を描かない。大衆の不利益となることを隠蔽しない。正義が黙殺されることに同調しない――。
 言論が正確であること。公正(フェア)であること。詰まるところ、この二つの要件が満たされていれば、ジャーナリズムの生命線は保たれるのだと私は信じている。
 世の中には、あちらにもこちらにもケチをつけてみせるような大物気取りをしながら、売るために平気で嘘を垂れ流す類のジャーナリズム≠ェ珍しくない。

旅人の「根」 2008年1月9日(水)

 『クーリエ・ジャポン』(2008年1月号)に掲載されていた、中田英寿氏と沢木耕太郎氏の対談がおもしろかった。
 周知のとおり、中田氏は2006年7月に現役を引退したあと、たった一人で世界各国を旅し続けている。対談は、そんな現在進行形の旅人≠ニ、今や古典というか伝説となった旅人≠フ先達が、「旅」について語り合うところから始まる。

 おもしろかった、と書いたのは、二人の対話がじつに噛み合っておらず、中田英寿という個性と新しい生き方が強烈な光を放つ一方で、沢木氏の感覚が古びた蛍光灯のように見えてしまったからである。
 私は密かに、中田英寿という人は日本のサッカー史を塗り替えただけでなく、インターネット時代の新しい世界観を等身大に体現したという意味でも、歴史的な存在なのだと思っている。

 1年数カ月もの間、旅を続けながら(それは今も続いているのだが)、中田氏には日本という国も含めて特定のベース地がなかったそうだ。
 私たちは通常、祖国というか居住地をベースにして、あくまでも非日常の特別な期間として旅に出る。長い旅だったとしても、たいてい自分が腰を落ち着ける拠点というものがあり、それは物理的・肉体的にはもちろん、精神的な安全装置として機能しているはずである。

 沢木氏はそんなベースを持たない中田氏を「ノマド(遊牧民・移動する人)」と形容しようとした。だが、中田氏はあっさり否定して、もはや「世界のどこでも自分の家」「世界というものが一つの家のような感覚」なのだと応じる。
 ところが、その中田氏の言葉が実感としてピンとこないのだろう。沢木氏は重ねて、ベースのない世界旅は「根」のない日々ではないのかと老婆心を向けるのだ。

 中田氏は応じる。
 〈その「根」というのは実は、現代ではインターネットだと思うんですよ。ネットを通じて、世界中の友達と毎日のようにコンタクトをとりますし、それぞれが移動していても、ネットというものを通じていつも必ずつながっている〉
 〈たとえば、ネットが発達してないアフリカの奥地で暮らせと言われたら、さすがにそれは無理かなと思います〉

 沢木氏はそれを聞いても、ネットの人間関係は「上澄み」に過ぎないとか、実際に人と会わなければならないとか、ネットでの関係性そのものに懐疑的な言を続ける。
 中田氏が言う。
 〈僕は、たまに会う人よりも、一年に一度しか会わなくても頻繁にメールをしている人とのほうが、より親密になりますね〉〈(もともとある人間)関係をさらに深くするという意味では、ネットはすごく有効ですね。それによって世界がより広がる〉

 インターネットというメディアは、それがあまりにもパーソナルなメディアであることによって、たしかに人々の精神を公共の現実空間から撤退させてしまいかねない陥穽をもっている。
 世界とつながっているはずのシステムを前にしながら、他者にも社会にも関心を持たず、無責任な細切れの感情ばかりを吐き出すようなひきこもり′サ象は、そこここで生まれている。

 けれども、それはインターネットという装置の側の瑕疵ではなく、あくまでも利用する人間の側の未成熟さに起因するものであろう。
 インフラが整っているという前提を必要とはするが、個人がリアルタイムで世界全体とアクセスし得るという意味で、インターネットの登場は人類の意識を変えるミレニアム的な大革命をもたらしたといってよい。

 私が感銘するのは、いち早く個人発のメディアを成功させてきた中田氏が、さらにインターネットによって世界市民としてのアイデンティティーを強固に支え、「世界を家とする」生き方を実際に可能にしてみせていることなのである。
 もちろんそれは、中田氏が旧態の価値観に縛られていないことや、堪能な語学力を身につけたことや、人間そのものに強い関心を持っているという前提があって可能になったものではあるが。

 中田氏と沢木氏の対話は終始噛み合わず、終盤は沢木氏が中田氏に気圧されて、どちらが人生の先輩なのかわからないような具合になっていく。中田氏が生まれるよりも前から世界を旅してきた沢木氏だが、両者が決定的に違うのは、そのアイデンティティーの置き場所なのだろう。
 二人のコントラストは、単なるパーソナリティーの差異を越えて、インターネット世代と前世代とが、かくも異なる世界を見ているのかと実感させてくれる。

 思えば、交通機関が発達するまでの長い間、人々のコミュニケーションを支えていたのは文字で書かれた「手紙」であった。
 それこそ移動手段が限定されていた時代には、実際に顔と顔を合わせて語らい合うことのほうが困難で、文字を介したコミュニケーションを主要な舞台として、人々は恋をし、友情を育み、師事し、人生を豊かにしていた。

 そう考えると、インターネットによるメールも、テクノロジーが違うだけで、基本的には古典的なコミュニケーションといえるのかもしれない。
 同時に、インターネットは国家や民族の縛りを超えて個人を世界とダイレクトに結ぶ、新しい世界宗教≠ナもある。ただし、宗教というのはいつだって「鬼に金棒」の「金棒」なのであって、「金棒」は使う本人が「鬼」になりきれないうちは、漬け物の重石にもならない。

『ドナウの旅人』 2008年1月1日(火)

 昨日の朝、つまり2007年の大晦日の朝早く、なにげなくテレビをつけたら画面に見覚えのある男性が映っていた。作家の宮本輝さんであった。
 宮本さんが自分の通っていた大阪・曽根崎の小学校や、幼少期や青春時代に過ごした川べりの風景を案内しながら来し方を語る内容で、震災後に建て直したご自宅の書斎にもカメラが入っていた。

 宮本さんご本人はむろん覚えておられないだろうが、私は氏に二度、お会いしたことがある。もう20年以上も前の学生時代の話である。
 たまたま神戸の実家に帰省していた私に、アルバイト先の月刊誌の編集長から電話があった。兵庫県伊丹市にある宮本さんの家をお訪ねするのだけど、同行しないかという誘いだった。今をときめく人気作家に会えると聞いて、私は二つ返事で応じた。

 編集長は、宮本さんに仕事の依頼をするつもりだったようで、待ち合わせ場所に行ってみると、美しい女性がいた。当時、渡辺たをりさんの『花は桜 魚は鯛』を出版したばかりの編集者だった。
 私たちは阪急の伊丹駅からタクシーに乗った。編集長が宮本さんから言われたように「宮本輝さんの自宅まで」と告げただけで、迷わずに一軒の家に着いた。

 私は、宮本さんにサインをしてもらおうと、あわてて途中の本屋で買い込んだ氏の新刊『ドナウの旅人』を持参していた。
 ご自宅の二階にある広い応接間で、美しい壺を背に宮本さんが座り、左右に編集長と女性編集者、私は自然と作家の正面の下座に座ることになった。背後の窓に障子がはまった、美しい意匠の部屋だった。

 ところが、まもなく私は困惑することになった。最初の挨拶の瞬間に一瞥したあと、宮本さんがただの一度も私とは目を合わせようとしないのである。2時間余りの滞在時間中、氏は楽しげに二人の編集者とは歓談しながら、明らかに私を黙殺した。
 もともと何の関係もない若造が興味本位で同行しているのだから、もちろん氏にとって愛想を振りまく筋合いもないのだが、それにしても不自然なほどに目が合うことを避けているのだ。

 やがて一行が辞する時間となり、私は思いきって持参した本にサインをしていただきたいと申し出た。
 すると氏は、やはり私とは目が合わないようにしたまま本だけ受け取った。買ったばかりの本にはなぜか書店のレジで抜かれるはずの注文伝票がはさまったままで、宮本さんは「こんなもんが入ったままやないか」と、笑いながらではあったが忌々しそうに伝票をうち捨てた。

 しかし、サインはけっしてぞんざいなふうではなく、私の名を聞いて丁寧に書き入れると、わざわざ内線電話で夫人に落款を用意するよう告げて、署名の脇に押してくださった。
 それから私に本を返して、はじめて口をきいてくれたのである。この日、私はブレザーを着た、いわゆるアイビースタイルの服装で、それが正しいと思い込んで白い靴下を履いていた。

 「あんなあ。教えといたるよ。ネクタイの時は白い靴下は履いたらあかんねん」
 宮本さんは、あくまでも目は合わせないまま、それだけ告げた。これが、この日にかけられた唯一の言葉となった。
 二度目に氏と会ったのは、数カ月後、氏が『優駿』で吉川英治文学賞を受賞して、そのパーティーが大阪のホテルで開かれた際である。

 やはり編集長が誘ってくれたので、学生には安くない会費であったが、私は参加することにした。先般、何か自分に非があって氏の不興を買ったのなら、あらためて挨拶をし直さねばと思ったからである。
 編集長もそこを気にしていたようで、立食式の宴の途中、私を連れて氏のそばに行き、「先日お連れした東君です」と私を紹介しかけた。

 ところが、間の悪いことにステージで出し物の太鼓が始まってしまい、すると氏は大きな身振りで編集長を遮ってステージに向き直ってしまった。
 私はさすがに落胆し、少し腹が立った。なぜ、宮本さんは徹底して私を避けるのか。何か私に落ち度があったのか、生理的に嫌われたのか。理由はさっぱりわからなかったが、もはや氏が意識して私を拒んでいることは疑いようもない事実だった。もう、この人には会うまいと思った。

 それでも不思議なことだが、この20年余の間、私には氏に対する悪感情など皆無だったといってよい。口の悪い宮本さんが私の立場であったら、それこそ「偉そうにしやがって」と悪態の一つもつくところだろうが、私には思いを告げられないまま離れ離れになった片思いの相手を遠くから眺めるような感情だけがあった。
 その後も氏の作品の数々を読み、巧みな物語に魅了され続けた。

 思いがけなくテレビ画面で再会した氏の、年齢を重ねられ円熟した風貌を見ながら、私の脳裏にはるか昔の少しほろ苦いような記憶が蘇ってきたのである。
 氏が私を避けた理由はわからない。だが、もしもあの時、正反対に氏が私に好意的に親しく話しかけ、適当に愛想のひとつでも示していたら、その後の私はどうしていただろうかと、ふと考えることが何度かあった。

 人の一生は他者との出会いで大きく動いていく。いつ、どこで、誰と出会うか。あるいは出会わないで済むか。万事は恋愛に似て、出会いが成就することで不幸になることもあれば、成就しなかったことで結果的に人生の危機を回避することもある。
 そして、氏の意図や感情などをはるかに超えたところで、自分は何者かに護られていたのではないかと思うのである。

 なぜなら、宮本さんとの邂逅は、やはり私の人生にとって決定的な役割を果たしていたからだ。
 あの日、編集長に伴って宮本邸の玄関を入り、応接間へと続く階段をゆっくり昇りながら、「ああ、この人は、原稿用紙でこの家を建てたんだな」という、いわく言いがたい感動に包まれていた。当時、私は原稿料というものをもらうようになったばかりの身であった。

 時間にすれば数秒。二階に昇りきるまでの間に、まだ作家その人にさえ会わないうちに、私は自分もプロのもの書きというものになろうと決心したのである。四半世紀近く経った今もなお、私はあの数秒間をありありと思い起こすことができる。
 その運命的な人間に、なぜかしかし徹底的に遠ざけられたとして、それが単なる運の悪さなどであろうはずがない。

 私の仕事場の書架には、美しい筆致でサインの留められた『ドナウの旅人』が静かにたたずんでいる。その筆致は、私への冷たい態度とはうってかわって驚くほど手間をかけて丁寧に施された、私たちの邂逅≠フ記念碑である。
 それにしても、なぜふだんならあり得ないような時間に、私はあの番組にスイッチを合わせたのだろうか。文字どおりの「妙」。人生には、そういう不思議なことがある。



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