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「女のお勝手」
長谷川 智恵子



聖心育ちの画商の妻 今一流の画商として世界へ

 日本の画家が世界で通用するためには何が必要か。意見を戦わせる語学力がいる。圧倒的な仕事をこなすプロとしての体力がいる。本業以外にもマルチにこなす創造力がいる ― と彼女はいう。
 それはそのまま、画商・長谷川智恵子さんの実像でもある。日本に本物の芸術文化がを根づかせるため、一年の数カ月を海外を駆けめぐって過ごす。世界に通用する数少ない日本女性である。
  • 長谷川智恵子(日動画廊副社長)
    はえがわ・ちえこ●1944年、東京生まれ。父は藤倉電線社長の兵藤嘉門氏。聖心女子大学在学中に、長谷川徳七氏(現・日動画廊社長)と結婚。3女の母であり、日動画廊取締役副社長として展覧会企画、仕入れ、出版企画、海外交渉を担当する。日本洋画商協同組合理事長などの要職も兼務し、日本の洋画商界の顔として国際的に知られる。多年の日仏交流が評価され、フランス政府よりレジオン・ドヌール・シュヴァリエ勲章(95年)などを受章。

<本文より抜粋>
妻として、いきなり縁側磨きから仕込まれて

 夫の両親と同居する生活が始まる。舅は、牧師から画商に転じ、風呂敷に絵を包んだ行商の「風呂敷画商」から日動画廊を育て上げた立志伝中の人。その妻である姑は、働き者できれい好き。画廊に出勤する前に家中を掃除し、ヌカで柱を磨く人だった。
 小学校からの「聖心」育ちで、お手伝いさんまかせの暮らしをしてきた智恵子さんは、いきなり縁側磨きから仕込まれた。結婚してすぐに子どもが生まれたが、姑は井戸水でおむつを洗うようにいう。洗濯機は使わせてもらえなかった。口答えは許されなかった。苦労人の姑は、嫁も同じようにするのが当たり前という考えだったようだ。
 3人目の娘が生まれると、智恵子さんも画廊に出社するようにいわれた。7年間の専業主婦を経て、「画商の妻」は「画商」の仲間入りをすることになった。世界中を見渡しても、著名な画廊で夫婦が経営に携わっているのは日動画廊くらいだという。舅と姑は、その先駆者だった。智恵子さんは、見よう見まねで、画廊の仕事を一つ一つ覚えていった。

「画商の妻」から、世界を駆けめぐる「画商」に
長谷川 智恵子
 やがて、テレビ局から美術番組のインタビュアーの仕事を依頼される。美術を専門に学んできた訳ではない彼女だったが、この仕事の準備で多くの知識を身につけていく。持ち前の根性で、ミロ、シャガール、ダリといった巨匠たちにも、フランス語や英語で、ほとんど通訳なしでインタビューをした。
 1975年の日動画廊創立50周年記念の「ピカソ展」開催では、旧ソ連を訪問し、ピカソの逸品の貸し出しを交渉、成功させた。ソ連に行くこと自体、世論の反発も大きく、日露が理解し合えていない冬の時代だった。智恵子さんの勇気ある対話によって築かれた、エルミタージュ美術館のピヨトルスキー館長との信頼の橋は、この後レンブラント展、ゴーギャン展、マチス展等の成功につながっていく。今日の両国の友好は、決して政治家たちだけが作ったものではない。その陰には、人知れず勇気ある対話に挑んだ、幾人もの民間人の交流があるのだ。
「島国である日本人は、欧米に比べてやっかみと嫉妬が根強くある」
 智恵子さんは、著書『女だから、女だてらに』の中で、そう述べられておられる。
 周囲と差が出ないように地味にしている人間が評価され、胸を張って信念を貫く人が批判される。しかし、それは世界では通用しない。真実を自分で見ようとせず、無責任な風評で人を攻撃する国。そこから卒業しなければ、日本人は世界から相手にされなくなるだろう。
 苦労とは、戦争や革命といった「自分ではどうにもならない人生をくぐる人たち」だけが使える言葉だと智恵子さんはいう。人間にとって、それ以外は「苦労」などではない。さまざまな行き詰まりは、誰の人生にもあって当たり前なのだ。それを、どう生き生きと乗り越えていくか。
 智恵子さんの人生を華やかだと羨む人もいるだろう。だが大切なことは、今日の自分が、彼女と変わらない情熱と根性で自分を磨き、あらゆる行き詰まりを切り開いているかどうかではないだろうか。

(『リミューズ』 2000年2月号)



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