酒鬼薔薇事件、最愛の娘を奪われて
山下京子(山下彩花ちゃん・母)
<ご本人の了解を得て全文掲載しました>
平成九年五月二十七日早朝、神戸市立友が丘中学校校門前で、男子児童の遺体の一部が発見された。事件は、現場に残されていた手書きのメッセージから「酒鬼薔薇事件」と呼ばれるようになる。一カ月後、逮捕された犯人は驚くべきことに十四歳の中学三年生。しかも、男子児童殺害以前にも、少女一人を殺害、三人を負傷させていたことがわかった。被害者の一人、故山下彩花ちゃんの母、山下京子さんによる手記――。
「ずっとそばにいるよ 姿は見えなくても」
娘・彩花が通っていた竜が台小学校の正門に、小さな桜がたたずんでいます。植えられて二年目となる今年も、細い枝にまだ頼りなげな花を、それでも一生懸命に咲かせることでしょう。その桜にかけられた小さなプレートに、冒頭の言葉が刻まれています。
九七年三月、私は最愛の娘を何者かの手によって奪われました。彩花のほかにも三人の少女が相次いで負傷しながら、犯人像は見えないまま、五月には小学六年生の男児が無惨な形で殺害されました。世にいう「酒鬼薔薇事件」です。やがて逮捕された犯人は、まだ十四歳の中学生でした。
日本中が、来る日も来る日も事件の話題一色だったような日々でした。人間とはこんなに残酷で愚かな生き物なのか。多くの人々が、一連の事件によって人間への希望と信頼を失っていったように思われました。私にとっては、自宅から家族が脱出しなければならないようなメディア・スクラムを受けながらも、どこかでサスペンスドラマを見ているような、手ごたえのない虚しい日々でした。
このままでは、彩花の生きた十年の歳月が世の中に絶望を広げるだけの人生で終わってしまう……。なんとかしなければという思いが募っていたある日、以前に私からお訪ねしていた一人のジャーナリストが、わが家を訪問してくださったのでした。
「本を書くつもりはありませんか。ただし、被害者からの告発のようなものではなく、もっとも絶望している側から、今こそ社会に希望を発信していくのです」
その人の思いは、そのまま私の思いであり、家族の思いでもありました。そこから『彩花へ――「生きる力」をありがとう』という一冊の本が生まれました。出版してまもなく、千通を超す手紙が返ってきました。そしてそれは、哀れみや同情の手紙ではなく、「私たちこそありがとう」という娘への感謝の手紙でした。ああ、彩花の生きた時間は、これで価値あるものになった。その喜びが、今度は私たち一家を大きく蘇生させてくれたのだと思います。
幸福とは何か
残念ながら、この神戸の事件を引き金にするかのように、その後も少年による残虐な事件が続きました。娘の命を奪った少年を崇拝するような同世代たちもいると聞きます。いったい、世の中の何がどう狂ってしまったのか。単に教育の場で「命の尊さ」を訴えたところで、家庭で「しつけ」を厳しくしてみたところで、何も変わらないように思うのは私一人ではないと思います。
最愛の娘を奪われるという、もうけっして修復することのできない喪失を経験したことで、私たち夫婦は「生とは何か」「死とは何か」そして、「幸福とは何か」ということと向き合わざるを得なくなりました。娘をめぐる本を書くという作業は、そのまま、こうしたテーマとの格闘となりました。いかに、私たちの国ではこういうことがなおざりにされてきたのか。そのことも痛感しました。
事件のあと、亡くなった娘のことを思うと、自分たちが何かを楽しんだりすること、それどころか何かを食べて美味しいと感じたり、笑ったり眠ったりすることにすら、私は罪悪感を感じていました。そういう袋小路を打ち破ってくださったのが、あの本作りを提案してくださったジャーナリスト・東晋平さんの言葉だったのです。
「遺された者が、どう立ち上がり、どう幸福になっていくかなんです。親子一体と確信して、そう決めて、山下さん自身がふたたび生き生きと前進していくのです。同じ悩んで悲しむなら、生き生きと悩み、生き生きと悲しみましょうよ。何があっても、自分で自分の胸中に希望の太陽を昇らせていくんですよ」
今、この七年の歳月をふり返ってみて、私たち一家は人生の軸足を亡き娘ではなく、遺された自分たち自身に取り戻すことができていたのだと思います。自分の前進が、自分の勝利が、娘の勝利につながっていく。そういう一本の希望の糸があったからこそ、私自身も、その後の乳ガンという出来事とさえ格闘することができたのだと思います。
何ごともないことが幸福なのだと、事件前の私は漠然と思っていました。しかし、今の私はそうではないと大きな声でいうことができます。何があったとしても、どんな行き詰まりがあったとしても、そのことと悪戦苦闘できるということが人間の幸福なのだ、と。
昨秋、三冊目の本となる『彩花がおしえてくれた幸福』を出版させていただきました。事件当時に十三歳だったうちの息子が、この六年半をどう生きてきたか。そのことも、今回初めて東さんと息子との対話を経て、東さんのエッセイとして収録していただきました。そこには、親としてわかっているつもりでいながらわかっていなかった、息子の苦悩がありました。
加害男性は、やがて社会に出てくることになるのでしょう。私たち一家も、悪戦苦闘の七年でした。絶対に元には戻せないという絶望を抱えながら、それでもなお、前へ前へと歩いてきました。亡き娘と一体で、幸福へ、勝利へ、希望へと必死で歩いてきました。
加害者を許せるかと問われれば、それは永久に許すことはできません。しかし、私たちが絶望を抱えたまま、そこに希望を切り開いてきたように、彼にもまた、深い絶望を抱えたまま人間として蘇生していってもらいたいと思います。自分という人間の輝きを発見することで初めて、彼は自分が奪ったものの真の価値に気づくと思うのです。
娘を失い、乳ガンで乳房を失い――と、私の場合はあまりに激しい暴風雨にさらされましたが、じつはこの生老病死の苦しみは形こそ違え、なんぴとにも必ず同じく訪れるものなのです。そのすべてを、人間というものの底力を証明する舞台に変えていくことができるなら、人生はなんと素晴らしいものになるだろうと思うのです。
(『文藝春秋』 2004年4月特別号)
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